幸せという感覚の個人の中における定義

「幸せというのは本人の中の認識の中にしか存在しない」

 

というようなことはたまに見ますね。
外から見れば大変な苦労をしているように見えている人でも、本人なりに自分の境遇に満ち足りていればその人自身は幸せだし、
逆にどんなに恵まれた環境にいたとしても本人が不服を感じていればその人は不幸である、という大体そういう趣旨のお話です。
まぁこういうお話は「だが将来のことを考えると……」というのもついてきますけれどね。
そこらへんは人によりけり、ケースバイケースであると思います。
どんな状況に追い込まれても自分なりの幸せを見つけるという極論に至ると、
京極夏彦著「魍魎の函」みたいなことになりますけれど……。

 

私自身は外から見れば、まぁ不幸な分類に入る人間だと思います。
この年になるまで色々と枷があり、今もあるということは否定はしません。
しかし私自身はそれなりに充足しています。ただ、この充足は自ら強制して感じたものかもしれないな、と最近は思うのです。

 

まぁよく言う「10代の頃はもっとギラギラしていた」という感覚に近いですね。
もう少し、周囲の環境やら自分が携わるものへの明確な嫉妬心、対抗意識が強く「負けるものか」という気持ちがあり、
それが原動力となって色々と行動していました。
その頃の自分にはできていたことが、今の自分にはどうにもできない。できていない。
これは不幸とかそういうことではなく、寂しいと感じます。
またできるようになりたいなぁ、とは思うのですけれど、そうなるとまたあの感覚を思い出さなければいけない。
でもああいった「負の感情による原動力」というのは大概辛く、
今の精神状態の方が気楽なんだよなぁ、と生ぬるい生活を選んでしまうわけでありまして。

 

まぁ、個人の主観の中に限っても総合的に完全無欠に幸せな人なんてさすがに一握りしかいないってわけでありまして……。